GREENLAND

エム・ヴイ・エム商事株式会社の扱う野菜・果物に関する商品や産地、販売情報から、生産者、栽培方法、旬、栄養、保存方法、レシピ、美味しいお店、果ては会社や仕事の、楽しさ、新たな発見、感動、熱い想いなどなどをスタッフが綴るブログ。

チェリー昔話 〜ジョンレノン一家にチェリーをプレゼント〜

営業第1部の高井です。
MVM商事は37年目の1975年に現在弊社の石田忠明会長が設立しましたが、実は小生と二人でスタートしました。その後、私は自身の都合で他社に出て、何と2010年10月に21年ぶりに立派に成長したMVM商事に出戻りました。この最長出戻り記録はギネス物かもしれませんね。
会社の設立当時には、ニュージーランド産玉葱やフロリダ産グレープフルーツを、今の様にメールではなく高いコストの掛かった海外電話で海外取引先に注文し販売をしていましたが、当時は世の中が高度成長で、何を輸入しても羽が生えた様にドンドン売れた時代。毎日会社が成長していると実感できる楽しい時代でした。MVM商事も短期間に成長を遂げ、設立から2年後の1977年に1978年からアメリカ・ワシントン産チェリーが解禁になると言う話を聞き付け、すぐに動いたのですが、既に当時チェリーの輸入は日本の大手商社や全農関係の商社が一手に牛耳って輸入をしようとしていて、ほぼ弊社が参入する余地が残されていない環境下でした。しかし、石田会長の“不可能な事はこの世の中にない”と言う何事にも挑戦する“MVMスピリット”で、1978年のチェリー解禁年には堂々と弊社もチェリービジネスに参入する事が出来ました。解禁年にはチェリーを店に並べれば行列ができ奪い合いになるほどの人気者で、チェリーを買えばカッコいい時代の中、日本の消費者にアメリカ産チェリーの美味しさをもっと伝えようと東京、神戸、大阪などで、アメリカ人の女性も起用して宣伝販売を行っていました。
その一環で、当時若い女性に圧倒的に人気の高かった軽井沢でキャンペーンを行う事になり、MVM商事が軽井沢銀座でチェリーの試食宣伝販売を2日間行いました。私が責任者でキャンペーンの前日から軽井沢に入り、何と宿泊先が皇室や日本の著名人が利用される、あの“万平ホテル”でした。軽井沢に夕方に入り万平ホテルにチェックイン。当時、私はまだ29歳だったのでこんなに素晴らしい、由緒あるホテルにはめったに泊れないので、チェックインしてホテルのあちこちを見物してまわりました。夕食はホテルが森の中にポツンとあるので町に出るのも時間がかかるし、一人で泊っていたのでホテル1階のレストランでとる事にしました。一人で席についてレストランから見える日本庭園などを眺めながら*1、ちょっと豪華な食事をとっていました。その日はレストランもガラっとして他のお客さんは斜め前に外人の子供ずれ家族が一組でした。でも奥さんが注文を日本語でされてるのが耳に入ったので国際結婚のカップルの様でしたが僕はビールを飲みながらふとその家族を見ると、どうもその日本人女性がオノ・ヨーコさんに似てるではないですか!?まさかと思ってご主人らしき人を見ると なななんと…ジョン・レノンではないですか!?*2 当時僕にとってはジョン・レノンは神様みたいな存在だったので、加えて食事中だったので“Hey John”なんて声もかけられないし、体が硬直したような状態で最後まで食事が喉を通らず、そうしている間にこの家族は自分の部屋に帰ってしましました。

その晩にこれは何か話が出来るチャンスを作ろうと、ホテルの冷蔵庫に保管してあったBINGチェリーから大玉で綺麗なチェリーを選び出し箱に詰め、手紙を添えてホテルの支配人にお願いしてジョン・レノン一家に届けてもらいました。手紙には僕の部屋番号も書いてあったので、もしかすればお礼に部屋を訪れてくれるかもと期待しながら夜遅くまでドキドキしながら待ちましたが…それは実現しませんでした。
さて、あの綺麗なBINGチェリーは食べて貰ったのか如何か?その後ビートルズ関係の本やオノ・ヨーコさんの軽井沢でのインタビューなどをチェックしていますがチェリーの話は出てきません。皆さまご存じの様にジョン・レノンは1980年12月8日にニューヨークの自宅前で銃弾に倒れました。永遠のジョン・レノンに会えたこの幸運は未だにはっきりと記憶に残っています。特にチェリーシーズンに思い浮かべます。
現在ビートルズのメンバーはポールとリンゴですが最近ポール・マッカートニーがJAZZのCDを出しました。スコッチのロックを傾けながらこのCDを聴くと最高です。皆さまどうぞ。

キス・オン・ザ・ボトム

キス・オン・ザ・ボトム

*1:今思えば、優雅なものですね…

*2:子供は勿論ショーン・レノンちゃんでした。