GREENLAND

エム・ヴイ・エム商事株式会社の扱う野菜・果物に関する商品や産地、販売情報から、生産者、栽培方法、旬、栄養、保存方法、レシピ、美味しいお店、果ては会社や仕事の、楽しさ、新たな発見、感動、熱い想いなどなどをスタッフが綴るブログ。

想い


北海道オフィスの瀬尾冬樹です。

先月末、事件が起こった。僕は深い悲しみと、それから10日経った今もこれからの不安を抱えながら毎日を過ごしている。
僕が商品の仕入・販売以外のすべての工程を任せていた会社が突如として倒産した。
しかしながら、暫定ではあるのだけれどある程度の体制がぼんやりと見えてきたこともあり、こうして筆を執ることにした。
この出来事は僕にとってこれまでどんなに良い付き合いをしてきた彼女との別れよりも辛く悲しい思い出となって、僕の人生の1ページに刻まれるに違いない。
きっとあと30年後に僕が会社を引退するときも恐らく思い出すんだろう。
僕が初めて一人だけでは何も出来ない、生きていけないかもと思い知らされた一件だった。

その震源地の会社はワードラインという旭川の中堅規模の運送業者だ。僕がその会社と知り合ったのは2013年の2月のこと。知り合った当初はその後これだけの付き合いになるなんて想像すらしていなかったし、そこまでの期待もしていなかった。
初めての商談の時、ワードラインの担当者は自分の会社のこともよく分かっていない2代目の盆暗息子が相手だった。当時僕はこれまで北海道から本州に野菜の原料を輸送して販売するだけしか出来ない環境のなか商売をしていた。このスタイルを変えようと少しづつ委託加工してもらえる会社を探している真っ最中だった。その盆暗息子が僕に言った「ウチでは玉葱や南瓜の選別が出来ます」と。僕は倉庫の面積や1日の選別能力はどれほどなのか質問を浴びせたのだけど彼は全く自分の内情が会社が分かっていなかった。僕は彼ではラチがあかないと悟り、早速その会社の社長に会いに行くことにした。
数日後、僕はワードラインの本社がある旭川に向かった。社長の斉木さんは運送会社の社長としては寡黙な方だったのだけど、僕が南瓜の約11ヶ月に渡る選別プランなどを話すと目を輝かせて即答してくれた「是非やらせてください」と。僕は直感的にこの人はフットワークが軽快だと感じ取り、今シーズンはこの会社に掛けてみようと決意した。

それから一ヶ月後、大規模な南瓜の選別機が出ていると情報を得て斉木社長と僕は神戸に向かった。以前南瓜の選別を請け負っていた倉庫会社にその機械はあった。10年以上前の機械で決して新しいものではないが、まだまだ活躍できる、品物は非常に頑強なものだと即座に斉木社長は見抜いた。この時既に2013年ゴールデンウイーク直前、7月20日過ぎには函館産南瓜の選別をサービスインしなければならないから時間は2ヶ月強しか残っていなかった。
僕はパソコン関連には明るいつもりでいるのだけれど、こうした大型のプラント施設は移設・設置、電源の配線やローテクながら時間の掛かる屋根の設置など1ヶ月位では通常はとても間に合わないシロモノだと言う事を初めて知った。まるでライオンの子供が初めて親元を離れ独り立ちするかのように。斉木社長はたった2ヶ月しか時間がないにもかかわらずなんとか初荷の入荷までにプラントを完成させてくれた。僕の思った通りこの人はフットワークの軽さは言わずもがな、出来ないという言葉を決して吐かない心強いパートナーを得たとこの時確信した。
選別開始当初は関西と関東の電圧違いからくる機械トラブル・部品の劣化やパート作業員の不慣れなどてんやわんやな状態がしばらく続いた。それでも日を追う毎にトラブルは減少していき、選別開始から2ヶ月経った頃にはほぼ不安は払拭されてきた。その頃には南瓜のみならず、玉葱も北海道での加工を開始することとなった。
こうして僕は電話一本で「原料の集荷→保管→選別加工作業→製品の保管→出荷」までのすべての工程をこなせるようになった。これまではすべてが違う会社に電話・オーダーのメールなどしていたものが、たった一本の電話ですべてが完結するなんて夢のようだ。もちろん、僕のオーダーの裏で手配する河東さんの苦労があったことは想像に難くないのだけれど。お陰で僕は新規の原料確保と販売に集中することが出来、当北海道オフィスの業績は相場の追い風を抜きに考えても非常に順調に推移することが出来た。
僕は傍目から見て自分でも本当にいけ好かない野郎だと思っている。会社の信用だけを後ろ盾にして人も雇用せず、自分だけハイエナのように美味しい所だけを持っていければそれでいい。僕は部下を作って仕事を渡し、自分は新しい仕事を生み出して会社を大きく成長させて次世代へ渡すなんて全然考えもしなかった。冒頭の事件が起こるまでは。
ワードラインと付き合い始めてから何もかにもが順調そのもので斉木社長はじめ、僕のわがままを聞いてくれる河東さんや事務処理や出荷指示をしてくれていた女性の三菱さんは本当に助けられ、僕は一人でそこそこの売上に支えられ悠々自適な毎日を謳歌させてもらっていた。収入は比べ物にならないけれど大航海時代のイギリスの貴族のように。

年が明け、1月からは初めて輸入の南瓜の取組を始めた。南瓜という作物は見た目とは打って変わってワインのようにデリケートであって、トマトなどと同類の果菜類に分類されることからも判るように、ちょっとした傷などからすぐに腐ってしまう厄介なやつだ。それでも輸入品が国内のマーケットの約6ヶ月間を占めることからも分かる通り、北海道以外の産地は輸入品に対抗できない、つまり仕入力のある輸入商社(インポーター)が活躍できる貴重なアイテムの一つだ。北海道にはこうした強烈なインポーターがおらず、意外と足の早い(腐れ)南瓜は神戸や東京から時間を掛け、本州では売れ残ったような規格だけ積んでこられるという捨場の扱いをされていたのが北海道の現状だった。こうした歪んだマーケットには必ずチャンスが転がっていることを確信していた。
つまり、販売時間(棚持ち)を伸ばすため気温差のある本州で選別され長い時間を掛けて大量に輸送されてきたものを時間を掛けて販売するスタイルを変えさせることが出来れば僕のマーケットシェアが広がるのではないか?という仮説の実行だ。それには小口の荷物を道内各所へ配送できる運送会社が必要だった。ワードラインはまさにそんなビジネスに最適のパートナーであった。彼らは函館以外のすべての市場への配送ルートを有しており、神戸からの原料の搬入→保管→選別→お客さんの欲しい規格の小口出荷というビジネスを一気に完成させることができた。これぞワードラインと瀬尾とのジョイントした完成形の仕事であった。あっという間にお客さんからの支持を得て月を追う毎に注文は増えていく一方。来年はもう少しお客を掘り起こして増やしていける。僕はのんきに浮かれていたのかもしれない。

順調に時は過ぎ、4月中旬の事だった。
僕がこの業界に入った9年前から懇意にお付き合いさせて頂いている会社の社長から電話が入った。
「ワードライン危ないって人伝に聞いたのだけど、どうなんだ?」と。
僕は細かい内情までは理解していなかったものの、何となくここ2ヶ月ほど斉木社長とは事務所にお邪魔しても不在のことが多かったし、河東さんも忙しそうに走り回っていたことを思い出し、即座に帝国データバンクで詳細な情報を入手して調べることにした。
データを見た僕は自己資本比率の低さには心配を感じたものの、今すぐにどうこうなるとは感じなかった。それは僕が債権者(お金を受け取る立場)ではなくあくまで荷主であり債務者(お金を支払う立場)から考えてしまっていたのかもしれない。僕は仕事のほぼすべてをワードラインに任せてしまっていて、万が一倒産なんかになれば僕の仕事そのものが揺らぐかもしれないというのに。
それから何事も無く約2週間が経過した。
2014年4月29日(昭和の日)僕はいつもの様に悠々自適に1日を過ごしていた。1時間ほどランニングで汗を流し、夜は近所のサラダバーで腹いっぱいサラダを堪能した。翌日からのゴールデンウイーク対応に備えて19時過ぎにはベッドに入っていた。まるでお腹が減ったら泣き、おむつを変えてもらい快適になったら寝るという生活を繰り返す赤ん坊のように。
ちょうど眠りかかったその瞬間、スター・ウォーズのダースベイダーのテーマ曲が僕のiPhoneから流れ飛び起きた。
この曲を着信音にしているのは中東青果の佐々井センター長だけだ。佐々井さんは僕がこの業界に入って2年目から僕に商売のいろはを教えてくれた恩人であり先生だ。まぁ怒らせてしまうと非常に苦労するのだけど。
20時過ぎに佐々井さんから電話があるなんて何かあったに違いない。僕は秒速を越え音速で危機を感じ取った。
佐々井さん「おい瀬尾!ワードライン聞いてるか?明日不渡りが出るらしいぞ!お前どうするんだ?荷物置いているんだろ?俺のところに移動させろ!で、お前は朝一でワードラインに向かえ!」
僕はこれまで会社の倒産を何度か見てきたし、実際に荷物の回収をしたこともあった。いや、正確に言えば僕が担当しているお客さんで商社言葉で言うところの”引っかかる(貸し倒れ)”は経験がなかった。もちろんワードラインも僕は金銭的な被害は通常考えられないのだけど、ワードラインの資産になっている選別機や僕の原料、そして明日も選別作業しお客さんへ納品しなければならないものを思い出し居ても立ってもいられない気分だった。
僕はすぐにでも旭川に走って行きたい気持ちだったのだけれど、とりあえず、現在自分が預けている原料・資材などを正確に把握する必要性があることに気付いた。そこからはもう時間との戦いである。即座にMacBook Airを開く、これまでのデータを洗いざらい整理する、そしてギリギリ明日の選別作業を行い、ゴールデンウイークを乗り切るだけの製品を作る必要性があった。
会社の従業員・パートさんの給料が払われるかどうか分からない状況の中、本当に彼らは僕の仕事のために動いてくれるんだろうか?僕は言葉に出来ないほどの不安でほとんど眠ることが出来なかった。

翌朝4時、僕は社用車に乗って札幌を出発する。当日は神戸からゴールデンウイーク後から選別作業を開始する原料の入荷日でもあった。僕はこれをワードラインに降ろしていいものかどうか悩んだ。
僕は万感の思いで朝5時半に旭川のワードラインに到着する。まだ誰も荷物の差し押さえなどには来ていない。僕はホッと胸をなでおろし、昨夜確認した在庫類を素早く視認した。
しばらくしているうちに斉木社長と少しだけ話をすることが出来た。
斉木社長に僕は率直に尋ねた。まずこの会社はどうなるのか?なにかウルトラCは飛び出すのか?と。
斉木社長は僕に言った。「申し訳ありません。今日、不渡りが出ます。ただ、事業を引き継いでくれる可能性のあるスポンサーと最後の交渉をします」と。
僕は「信じていいんですか?今、原料を積んだトレーラーが待っています。ここに荷降ろししていいんですね?そして本日の作業は実行してもらえるんですね?」と。
僕は腹を決め、斉木社長を信じることにした。昨年の春からの突貫工事で僕達の仕事を後押ししてくれた斉木社長は何とかしてくれると僕は最後まで心中することに決めた。
その話し合いは10時すぎまで掛かると聞いた僕は自分の荷物が誰かに持って行かれはしないかベッタリと現場に張り付き、待っていることしか出来なかった。そうしている間にも僕以外の取引先が続々とやってきて荷物を回収していく、その異常な雰囲気の中で淡々とパートさんたちは僕の南瓜のオーダーをこなしていってくれた。恐らくうっすらとは気付いていたのかもしれないが、彼女たちは当日の作業終了まで何も聞かされていなかったのではないだろうかと今でも思う。彼女たちは恐らくこの日の給料を払われることはない。しかし、作業終了まで極めて冷静に僕のオーダーに答えてくれた。
パートさん達は作業終了後、ワードライン本社内で本日を持って倒産という事実を初めて聞いたのかもしれない。家路につく彼女たちを僕は一人ひとり見送った。中には泣きながら帰っていく人も居たりして僕は丹念に凍らせた氷をアイスピックが突き刺すような胸の痛みを感じた。
僕が再建断念の報を耳にしたのは11時過ぎの事だった。僕は最後まで斉木社長に掛ける決意をしていたものだから当然僕のネットワークでは旭川の地元のトラックは緊急なオーダーに応えてくれない。適切な言葉で表現するなら絶体絶命の大ピンチだ。万が一弁護士に荷物を差し押さえされれば債務者であるはずの僕が一気に大損をしてしまう。そんな時、またしても僕を救ってくれたのが中東青果の佐々井センター長だった。僕の以前の会社の本当の上司よりも僕を可愛がってくれ、今回旭川の地元運送会社に電話一本でトレーラー2台を仕向けさせてくれた。11時過ぎからの行動にもかかわらず、14時ころからは僕の荷物の回収を始めることが出来、僕は首の皮一枚でなんとかこの難局を乗り切ることが出来た。まだ代替の輸送ルートなどは手付かずではあるが、夜9時過ぎにはホテルへ戻ることが出来た。僕はそこから月末の事務処理をする。他の運送会社へオファーを出す。この先の納品に支障をきたさない選別作業の確保などとても寝ていられる状況ではなかったのだけれど。

月が明けて5月1日。若干の荷物の回収は残っていたものの、僕は今後についてのプランを練り、あっという間に手持ちの名刺が切れるほど多くの人と名刺交換をした。ひとまず暫定ではあるが、輸送ルートとゴールデンウイーク後からの作業場所を確保することが出来た。またしても佐々井センター長の力を借りてだけれど。
とりあえず、これで僕は何とかなった。自分でもよくわからないのだけれど、ワードラインの元従業員の方の処遇が僕はどうしても気がかりで、たった1年の付き合いだったのだけれど、なんとか力になりたいその一心で僕は熟考を始めた。ある程度の目星はついてきたので僕は翌日札幌へ帰ることが出来た。
ゴールデンウイーク中は毎日焦燥感に襲われ続けた。もちろん突然仕事をなくされた従業員の方から見れば僕の悩みなんてちっぽけなのかもしれないけれど。それでも、僕は債務者側としてはある意味最大級の被害を被っているんじゃないかと今でも思う。
従業員の方や債権者の方の前で大きな声では言えないけど、僕は斉木社長を恨むことは全くなかったし、これからも無いと言い切れる。一緒に酒を飲みに行けばプレイボーイで、結構飲み歩いている僕をはるかに上回る様々な知識を持っていた。また、輸入南瓜事業を始めるにあたって販売先が少なかった僕からのリクエストで一緒に命からがら釧路へ出張した事。おかげさまで今となっては僕の中で素晴らしいお客さんの一人となってくれている。それでも一番はなんだかんだで僕の無茶なオーダーにもいつも応えてくれたことだ。最近、河東さんから聞いた話ではあるが「今後、伸びる可能性のある会社とはなんとしてもやれ」が口癖だったとか。

僕は本当にこの1年間、恵まれすぎていたのかもしれない。これからが通常に戻るだけで、もしかすると半年後には今までどおり悠々自適な毎日に戻っているかもしれない。
それでも今でも思い出す。給料がもらえるかわからないのに懸命に最後まで仕事をしてくれたパートさん。お金をかけないように南瓜の木箱を利用して作った休憩所・簡易作業台・もぬけの殻になった作業現場…ワードラインのみんなは決して裕福な会社じゃなかったから創意工夫してそれなりに楽しそうにしていた光景を思い出すと僕は本当にこのまま美味しいところ取りの人生を歩んでいていいのかなって思ったんだ。
人を雇っていくことはある意味その人の人生を背負うことでもある。今はまだまだ微力なんだけれど、僕もそうしていかなきゃいけないんじゃないかなって。
僕は未だに未婚で好き放題やって生きているけど、何かあった時、困るんだろうな?って今回はじめてそんな感情が湧いてきたんだ。

泣いたのは本当に久し振りだった。
でもね、いいかい、従業員の皆に同情して泣いたわけじゃないんだ。
僕の言いたいのはこういうことなんだ。一度しか言わないからよく聞いておいてくれよ。

 僕は・ワードラインが・好きだ。

あと10年も経って、スーパーに行った時に僕の箱に入っている南瓜や、
そして僕のことを覚えていてくれたら、僕のいま言ったことも思い出してくれ。


僕は今から5月一杯までに次の体制を固める。
どんな事があっても自分の身は自分で守るためだ。

残念なことに、金の切れ目は縁の切れ目で、出会いは別れの始まりなんだ。

何年後かに、また斉木社長と酒でも飲みに行きたいな。

今度は僕の奢りで。

注) 作中の登場人物・会社名はすべて架空のものです